標高を測るということ

本日も昨日に引き続き葺石をおいかけて、掘削作業を進めました。

前方部の調査区、後円部の調査区とともに成果が上がりつつあります。調査区のまわりは整理整頓を心がけつつ、掘り進めていきます。

こうした掘削作業も大切ですが、検出された葺石の”高さ”などをはかる作業もとても大切です。これは葺石だけではなく、堆積した土層の厚さ、古墳の墳頂から前方部の比高差など、調査の上で、一定の基準のもと、高さを測る必要があります。

万籟山古墳の発掘調査では、あるポイントに任意の高さをきめて、そこを基準にするのではなく、T.P.(東京湾平均海面、いわゆる海抜)を用いています。下の写真のように測量機器を用いて、標高が判明している地点から古墳までレベル移動という作業をおこない、昨年の調査では万籟山古墳の標高が判明しました。今年の調査でも墳丘上に杭を打ち込み、そこに㎜単位で標高値を与えます。こうした精度をもって古墳の測量や調査成果を図面に記録したりします。

こうした調査で必要な作業に、”高さ”は欠かせないだけではなく、古墳を考える上でもこうした数値は大切です。万籟山古墳は墳頂の高さがT.P.215mをはかりますが、大阪大学考古学研究室が発掘調査をおこなった長尾山古墳はT.P.121m。池田茶臼山古墳はT.P.86mです。豊中市にある大石塚古墳はT.P.23m、待兼山1号墳はT.P.65mの高さに築かれています。

このように比べてみると、同世代といってもよいほど、近い時期に築造された古墳ですが、標高が大きく異なります。万籟山古墳はまさに前期古墳らしい標高の高いところに築造されたといえます。とくに長尾山古墳は万籟山古墳から見下ろす位置にあり、このことが被葬者間の力関係を示すのか、両者の関係性が興味深いところです。

こうしたことも念頭に置きながら、明日も調査をがんばりたいとおもいます。(U)

みえはじめた葺石

本日もさいわい晴天です!
昨日に引き続き、どんどん掘削を進めます。

現在の墳丘をおおっている表土のしたからは、徐々に大きな石材が顔をのぞかせてきています。

こうした石材は、葺石(ふきいし)であると考えられます(下のコラム参照)。ただしその葺石が、古墳がつくられた当時そのままの位置にあるのか、あるいは長い年月によって下方に滑り落ちているのか(転落石)などを判断しながら、掘り進めなければなりません。

もし転落している石を、古墳築造当時のものであると誤って理解してしまえば、その古墳の本当の葺石が転落石の下に埋もれたままになってしまいます。当然、古墳の規模など、葺石をもとに判断する情報も、間違ったものになってしまうのです。

スピーディに、かつ慎重に検出をしていくことは、古墳発掘の難しいところでもあり、醍醐味でもあります。

古墳がつくられたオリジナルの姿を復元するためには、こうした地道な作業が必要になってくるのです。

〈古墳コラム:第3回〉

さて今回は、ブログ本文でもでてきた「葺石」について、ご紹介します。

古墳というと、緑の木々におおわれた、モコモコの姿を思い浮かべる方もおおいのではないでしょうか?

上石津ミサンザイ古墳(上空から)

 

しかし、実はこれは古墳がつくられた当時の姿ではないのです!

古墳は主に土を積んだり、山の尾根を削ってつくられることが多いです。

しかし、その仕上げに際しては、土そのままではなく表面に人頭大などの石を設置して、荘厳に飾り立てるのです。石を置くといっても、ただ単に表面に置くのではなく、しっかりと墳丘の土のなかに食い込ませて、長持ちさせようという所作がみとめられます。

この写真は兵庫県長尾山古墳で検出された葺石の様子です。斜面にそって石が並んでいるのがわかります。石を葺いた斜面の一番下には、基底石(きていせき)と呼ばれる大きめの石をおいて、区切りとしていることが多いのです。

石によって古墳を飾り立てることは、埴輪とあわせて古墳を荘厳にみせる重要な装置でした。いまは木々が生い茂って見えなくても、巨大な古墳の多くは、かつて上記のような姿だったのです。

 兵庫県五色塚古墳や、岐阜県昼飯大塚古墳(この写真の古墳)など、墳丘の復元整備がなされた古墳を訪れれば、当時の姿を偲ぶことができます。ぜひ訪れてみてください!(U)

 

いよいよ掘削開始!

こんばんわ。ブログ担当のUです。

本日は、雨天だった昨日とはうってかわって、気持ちの良い青空でした!

遠くまでよくみえます。思わず景色に見とれてしまっています。

 

さて今回は、発掘調査の一日の流れをご紹介したいと思います。

今日から掘削開始ということで、設定した調査区の範囲を、表面にある腐葉土から順に掘り下げていきます。

ところで、掘りあげた土はどうするのかというと、そのまま周りにほったらかしにするのではありません。
土のう袋に詰めて、一か所にまとめて積んでおくのです。


土のうを積むときにも、きっちり並べて積まないと、崩れたりして事故の原因となりかねませんので、注意が必要です。

はじめて参加する人は、先輩から土のうの作り方を教わっていました。

先輩の丁寧な指導が光ります。

 

調査の成果はその日のうちに、現場でのミーティングで共有します。ミーティングの際には、みんなで各トレンチをまわり、担当の学生がその日の成果を報告します。

トレンチが複数個所に分かれている場合にも、このように他トレンチの成果を把握することは、とても重要です。

他のトレンチでも自分のところと似たような土が出てきていないかなどの情報が、自分がいる調査区の発掘においても不可欠な情報になります。

夕方、作業が終了したら、保護のため調査区全体にブルーシートをかけます。

チームワークが試されるときです!

また、作業のあとは道具についた土をみんなで落とします。毎日使う道具を、安全に、長く使えるよう手入れをすることも、調査そのものと同様、大事な作業です。

いかがだったでしょうか?発掘調査と一口に言っても、ただ土を掘るだけでなく、現場全体のケアが重要な作業であることをわかっていただけたら幸いです。

今回の調査の目的は、万籟山古墳の墳丘の大きさや構造についての情報を得ることです。
明日以降も掘削が進めば、徐々にそういった成果がお届けできるかと思いますので、お楽しみに!

(本日はコラムはお休みです。楽しみにしていた方には申し訳ありません…)

 

調査三日目は雨でひとやすみ

こんばんわ。ブログ担当のUです。
本日はあいにくの天気であったので、現場作業は休みでした。

ということで、今日のコラムは、埴輪(はにわ)第1弾をお届けします!

今回担当してくれるのは、埴輪大好きK君です。

濃厚なハニワールドへ、いざ!

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〈コラム:埴輪の世界〉

第一回 埴輪とは何か

はじめまして!四六時中、埴輪のことを考えているKです。

今日のブログでは、埴輪の話をしましょう。

埴輪とは、古墳に立てられる土製品(どせいひん)のことを指します。同じ土製品でも、縄文時代などの「土偶(どぐう)」とは、時代もカタチもおおきさも全く異なるものです。

■埴輪の種類

埴輪と言えば人や馬の形をした埴輪を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。しかし、それだけではありません。

まず、埴輪には大きく分けて「円筒(えんとう)埴輪」と「形象(けいしょう)埴輪」の2種類が存在します。

 

形象埴輪は

・偉い人にさしかける傘を模した蓋形(きぬがさがた)埴輪
・盾を模した盾形(たてがた)埴輪
・さまざまな種類の鳥を模した鳥形(とりがた)埴輪(鶏形や水鳥形など)
・家を模した家形(いえがた)埴輪
・人物(じんぶつ)埴輪、馬形(うまがた)埴輪

などの総称です。

 

 

一方で、円筒埴輪は、土管状の形をした埴輪のことで、下から上まで筒状をしている普通円筒(ふつうえんとう)埴輪と、下が筒状で上が大きく広がる朝顔形(あさがおがた)埴輪に分けられます。

 

普通円筒埴輪の原形は、弥生時代に、岡山県などで築造された墳丘墓(ふんきゅうぼ)において供えられた、特殊器台(とくしゅきだい)と考えられています。


また、朝顔形埴輪の原形は特殊器台の上に壺(つぼ)をのせた様子であると推定されます。

 

■埴輪の考古学的な意義

埴輪は、人物埴輪などのように芸術的価値があるだけではありません。古墳の時期を決める”ものさし”になるほか、古墳時代という時代の特徴を知る手がかりともなります。

例えば、人物埴輪の服飾や家形埴輪の形などから、当時の衣・食・住を復元することができます。とくに衣類などは有機質であるために土中で分解され、発掘調査で出土することは極めてまれです。当時のファッションを復元するために、埴輪がもっている情報は貴重です。

また、埴輪にはさまざまなつくり方やその癖があり、用いられた技術や方法を観察することによって、つくり手の集団を復元することができます。もし遠く離れた古墳に同じ埴輪づくりの特徴をもつ埴輪が出土すれば、同一あるいは同じ流派の埴輪製作集団を推測することができ、この背景に人やモノを融通しあうような被葬者間のつながりを想定することもできます。したがって埴輪は、古墳被葬者の政治的な関係にまで踏み込んで議論することができる考古資料といえます。

今回、わたしたちが調査を行っている万籟山古墳が位置する猪名川(いながわ)流域では、万籟山古墳と近い時期の古墳が何基か存在しますが、これらの古墳の埴輪をつくった人たちと万籟山古墳の埴輪をつくった人たちは同じなのでしょうか、違うのでしょうか。また、違う場合、どの程度の交流があったのでしょうか。

このような視点は、猪名川流域における各小地域の交流度合いをはかる上でも欠かせないものになります。

さて、今日は埴輪の種類と埴輪研究の意義を説明しましたが、そのつくり方や配置の仕方、時期決定の方法などについては十分に説明できませんでした。まだまだおはなししたいことがありますので、この続きはまた今度ということにしておきましょう。(K)

現場二日目

調査二日目です。

調査を始める前に、本日予定されている作業をみんなで確認します。

 

確認の後、いよいよ作業開始です!

本日のおもな作業内容は、昨日に引き続きの下草などの伐採作業と、古墳のどの部分を掘削するのかといったことを決める「トレンチ設定」でした。

発掘調査を行う時に、場所も考えず、むやみやたらに掘りすすめてしまうと、適切な情報が得ることができないばかりでなく、必要以上に遺跡を掘り起こすこととなり、場合によっては遺構を痛めてしまうことになります。発掘調査は、ある意味では、破壊をともないます。そのため、手術の時に最低限の切開でとどめるのに似て、十分なねらいをつけて掘りすすめます。

 

上の写真にある測量機械(トータルステーション)を用いて、調査区の位置を決めていきます。

この機械は、調査した地点が地図上のどこにあるのか、などの情報を決める際に重要な作業(閉合トラバースと呼ばれる作業です)にも使われ、考古学の調査においてとても重要なものです。

一方、伐採は地道な作業ですが、発掘中の安全のためや、後々掘ったトレンチの写真撮影などをする際にとても大事になってきます。

 

最後に、その日の作業成果を皆で共有・吟味する現場ミーティングを行って本日の作業は終了です。

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さて、コラム第2回です。

〈第2回 古墳の立地について〉

古墳というと、みなさん下の写真のようなものを思い浮かべる方が多いのではないでしょうか?

空からみた百舌鳥古墳群

これは大阪府堺市にある百舌鳥(もず)古墳群です。日本一大きな大仙(だいせん)古墳(大仙陵古墳とも呼ばれます)を擁する古墳群として有名ですね。

百舌鳥古墳群は、古墳時代でも中期(おおよそ5世紀)の古墳群です。中期の古墳は写真のように平野に築かれることが多いのです。

一方、わたしたちが現在調査している万籟山古墳は、古墳時代前期の古墳であると考えられていますが、その立地は上の百舌鳥古墳群などとは大きくことなります。

上の写真は万籟山古墳からの眺めです。ごらんの通り、平野をみおろす高い山の上に古墳があることがわかります。

このように前期の古墳は、集落に住む人々から見上げられるような場所、逆に古墳からみれば、自分たちの地域を見下ろす立地を意識しているのです。
地図上では近い位置にある古墳どうしが、見通せる関係にあるのか、それとも山塊などで眺望を阻まれた関係にあるのかなども、古墳やその被葬者の性格を考えるうえで重要であると言えるでしょう。

古墳時代でも後期になると、ふたたび山のうえに古墳が築かれるようになります。ただし、古墳のあり方は前期のものと大きく変わり、小さな古墳が多く密集する「群集墳(ぐんしゅうふん)」とよばれるものになるのが最大の特徴です。

「群集墳」については、またこのコラムで別に扱う予定ですので、お楽しみに!

以上、本日は古墳の立地についてでした。(U)

現場初日

今日から発掘現場作業の開始です!

本日は調査初日ということで、発掘調査に使う機材の搬入作業と伐採がおもな作業となりました。

今回、調査する万籟山古墳は険しい山中にあり、人の立ち入りがないため、昨年伐採作業をした場所もすぐに草が生えてきてしまいます。ですので、毎回調査の前にはしっかり草を刈って、古墳のカタチを出すことが大切なのです。

また、古墳からは大阪~神戸の景色がよくみえます。

発掘調査というと、土をドンドン掘っていくイメージを持たれる方が多いかとおもいますが、安全に調査ができるように周辺環境の整備をおこなうことも、同じくらい大切な仕事です。

けが人が出ないよう、しっかり調査を進めていきたいと思います。

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さて、まだ調査が始まったばかりで成果がありませんので、本日は古墳時代にかんする用語のコラムをお届けします。第1回はこちらです!これでみなさんも古墳好きになりましょう。

〈第1回:竪穴系埋葬施設(たてあなけいまいそうしせつ)〉

トンネル状になった石の通路を通って、石棺などがおかれた部屋にはいることのできる埋葬施設は、一般に横穴式石室と呼ばれます。古墳というと、こうした横穴式石室を思い浮かべる方が多いかもしれません(下図の右側です)。

 

埋葬施設のうつりかわり

 

たいして竪穴系埋葬施設は、古墳のてっぺんなどから大きな墓穴(「墓壙(ぼこう)」と呼ばれます)を掘って、そのなかに棺おけを入れる埋葬施設の総称です。特に古墳時代前期から中期はこうした埋葬施設が主流となっています。

 

墳丘と竪穴系埋葬施設の関係

 

今回は、竪穴系埋葬施設のうちから代表的なものをご紹介しましょう。

①竪穴式石室(竪穴式石槨)

木棺のまわりに小さな石材を多量に積み上げて、密封する施設です。一番上には巨大な天井石がかけられており、棺を厳重に封印する思想が読み取れます。

かつて大阪大学が調査に携わった滋賀県雪野山古墳や、今回調査する万籟山古墳が代表的な例です。

雪野山古墳の竪穴式石室

②粘土槨(ねんどかく)

棺を大量の粘土で完全にパックしてしまうもので、竪穴式石室と違って棺の周囲に隙間がない点が特徴です。

過去調査された事例では、丸太状の工具で粘土の表面をたたきしめた痕跡がみつかっており、棺をつくったひとびとが、亡くなった首長の遺体を厳重に密封しようとしたことがよくわかります。

代表例としては大阪府の庭鳥塚古墳や、大阪大学が過去に調査を行った兵庫県長尾山古墳が挙げられます。

粘土槨(長尾山古墳)

埋葬施設にもいろいろありますが、特に古墳時代でも前半期の埋葬施設には、首長の遺骸を厳重に封印する思想が表れているといえます。

そうした思想の源流は中国の漢帝国にあると言われていますが、日本で独自の変化を遂げたものともいえるかもしれません。前方後円墳という世界的に見ても変わった墳墓とあわせて、そのルーツや反映された思想をよみとくことは、考古学者の大きなテーマの一つです。

 

これからも少しずつ、古墳にかんするコラムをお届けしようと考えておりますので、お楽しみに!(U)

事前勉強会&結団式

 

はじめまして。

大阪大学考古学研究室、万籟山古墳発掘調査団のブログ担当です。

本日より、日々の調査の成果や調査の一コマなどを、このブログで発信していきます。よろしくお願いいたします。

 

さて、今日から、わたしたち大阪大学考古学研究室は兵庫県万籟山古墳の調査にはいりました。といっても、調査初日の今日は、古墳の発掘調査に先立っての勉強会でした。

今回の調査で発掘する万籟山古墳は、古墳時代(3世紀中ごろから7世紀)につくられた有力者の墳墓です。今回の事前勉強会は、古墳の外表施設(葺石(ふきいし)など)、埴輪(はにわ)、副葬品などの基本的な知識をみんなで身につけようという目的で行いました。

各テーマ担当の3年生が、作成した資料をもとに発表していきます。

古墳時代にかんする基本的な知識(たとえば、古墳とはどのようなカタチがあるかといったことなど)から、埴輪のこまかな特徴まで、もりだくさんの内容でした。

 

なお、古墳にかんする基礎知識については、本ブログの右上にある「中学生・高校生のみなさんへ」のページでご紹介しています。興味がある方は、是非のぞいてみてください。

 

3年生による発表に続いて大学院生から、昨年度の調査成果や現場での諸注意にかんする発表もありました。やや専門的な内容になっていきます。

 

事前勉強会のあとは結団式です。

この結団式は、いかめしい名前なのですが、要は発掘調査の諸連絡、自己紹介といった内容です。

はじめに研究室の福永伸哉先生より、今回の調査についてご説明いただきました。

 

また、今回はじめて顔を合わせる人も多かったため、自己紹介も行いました。

 

いよいよ明日からは現場での作業です。三寒四温の不安定な天気ですが、無事に調査を終えられるよう、ケガに気を付けて頑張りたいと思います!(U)