万籟山古墳について

万籟山古墳について

万籟山(ばんらいさん)古墳は、兵庫県宝塚市の長尾山丘陵上に所在する前方後円墳です。その存在は戦前から知られており、考古学界でも著名な古墳であるといえます。これまで京都大学の梅原末治氏や宝塚市教育委員会などによる調査がおこなわれており、いくつか重要な情報が明らかとなっています。

このページでは、過去に行われた調査とその成果について簡単にご紹介します。

〇 梅原末治氏による調査(梅原末治 「攝津萬籟山古墳」『近畿地方古墳墓の調査』2所収、1937年)

1.露出した天井石

1934年、地元の方が山中にハイキングコースを作ろうとしたところ、偶然巨大な石材が露出しました。情報を伝え聞いた藤澤一夫氏と小林行雄氏が現地を確認したところ、この石材が竪穴式石室の天井石であり、かつ竪穴式石室がきわめて良好に残存していることがあきらかとなります。

そこで、両氏から報告を受けた京都大学の梅原末治氏を中心として、1935年4月から、およそ3か月にわたって調査がおこなわれました。

 

2.竪穴式石室内部のようす

調査により、竪穴式石室が完存していることや、墳丘長さ約210尺(およそ63m)の前方後円墳と考えられることなど、古墳の基本的な情報が明らかになりました。
竪穴式石室は後円部の中央に存在し、南北主軸をとっています。扁平な石材を徐々に内側にせり出させながら積み上げる「持ち送り」とよばれる技法を用いて作られている点は、大阪府池田市の池田茶臼山古墳や同茨木市の紫金山古墳など、おなじ摂津の前期古墳においても多く認められます。
石室の底には横断面がU字形をした粘土の台(棺床粘土)が残っていたため、本来内部には割竹形の木棺が納められていたものの、長い年月によって腐朽してしまったことが明らかになりました。被葬者の埋葬頭位は北枕といった南北方向であり、こうした埋葬の方法は中国における葬送思想の影響を受けたものと考えられます。

 

3.採集された遺物

また墳丘からは土師器(はじき)片や埴輪片、石室内からは鉄器片、木片、碧玉製管玉(へきぎょくせいくだたま)、瑪瑙玉(めのうだま)が検出されたほか、周辺で採集された遺物もあわせて報告がなされました。

その中には当時の日本列島で製作された青銅鏡や、北陸産の石材をもちいて作られたと考えられる石製品などが含まれており、古墳時代前期の有力古墳における典型的な副葬品組成であるといえます。

ただし採集された遺物については、万籟山古墳だけでなく、所在する園地の各所から集められたものであるといわれています。そのため、どれが確実に万籟山古墳に伴う遺物であるかは残念ながら不明と言わざるをえません。

 

〇 宝塚市教育委員会による調査(宝塚市教育委員会 『摂津万籟山古墳』、1975年)

4.宝塚市教育委員会による竪穴式石室実測図

万籟山古墳についての調査は、戦後しばらく行われていませんでしたが、1970年に万籟山古墳が宝塚市指定史跡に指定されたことをきっかけに、宝塚市教育委員会と関西学院大学考古学研究会による竪穴式石室・出土遺物の再実測作業がおこなわれました。

おなじ報告では、武庫川女子大学考古学研究会によって作成された墳丘測量図や、万籟山古墳でもちいられた石材および石室内で検出された丹彩の鑑定結果が掲載され、万籟山古墳に関する詳しい情報が学界に知られるところとなりました。

 

〇 これからの調査とその意義

このように過去には、特に後円部中心の竪穴式石室を中心として調査が行われてきました。しかし、埋葬施設以外の部分については不明な点も少なくありません。例えば、墳丘本体の発掘調査は行われていませんので、葺石の有無や、あるとすればどのような葺き方をしているかなどは明らかになっていません。また、埴輪についてもわずかな破片が知られているのみで、その詳細は不明です。

近年の古墳研究では、これまでおもな興味の対象であった重厚な埋葬施設や豪華な副葬品のみならず、葺石や埴輪などをふくめた総合的な視点が求められています。過去に調査が行われている万籟山古墳でも、解明すべきことがらはまだまだ山積していると言えるでしょう。

〈図・写真の出典〉
1~3:梅原末治1937「攝津萬籟山古墳」『近畿地方古墳墓の調査』二 日本古文化研究所
4  :直宮憲一1975『摂津万籟山古墳』宝塚市教育委員会