今回の調査でわかったこと

こんばんは。ブログ担当のNです。

万籟山古墳の発掘調査も今年度分はおおむね完了し、あと掘削個所の埋め戻し作業をのこすのみです。

本日は、その作業を行う予定でしたが雨天のため、中止。明日も卒業式などがあるので、作業を行いません。

発掘調査も一息ついたところで、この場をお借りして発掘調査成果をお知らせしたいと思います。今回の調査では、現地説明会など、成果を現地でみていただく機会を設けることができませんでした。楽しみにされていた方には大変申し訳ございませんが、ここでご紹介することで、すこしでも調査成果を共有できればと思います。また、”調査の概要”でお知らせしています通り、宝塚市教育委員会とご相談しながら後日、成果報告会などを開催したいと考えております。

さて、今年度の発掘調査でわかったことは、つぎのようにまとめることができます。

調査成果①  著名な前期古墳をはじめて発掘調査したこと

万籟山古墳は、1934年にハイキングコースをつくる際、発見されました。その後、梅原末治らによる調査(梅原末治1937「攝津萬籟山古墳」『近畿地方古墳墓の調査』二 日本古文化研究所)、武庫川女子大学による測量図作成、宝塚市教育委員会・関西学院大学による石室実測(直宮憲一1975『摂津万籟山古墳』宝塚市教育委員会)など、埋葬施設を中心とした調査はなされてきたのですが、万籟山古墳の墳丘に関する情報は、地形の観察や測量調査によって推測するほかありませんでした。

たほう、古墳の研究は、埋葬施設やそこにおさめられた副葬品だけではなく、墳丘のサイズや構造にかんする情報も重視するようになりました。とくに古墳のサイズは、古墳築造に投入された労働力を反映するのですが、150m前後、100m前後、60m前後といったように一定の約束事をもっていることもわかってきました。

現在、墳丘長は古墳被葬者の実力、すなわち古墳築造に動員できる人々や労働時間があらわれたものであり、それが承認されているという考えが通説です。

こうした考えにたてば、文字史料に恵まれない古墳時代でも、古墳という考古資料を用いて、地域をおさめた有力者の存在やその政治的位置を探ることが可能となります。

大阪大学考古学研究室では、これまで考古学界の中で著名でありながらも墳丘に関する詳細な情報が知られていなかった万籟山古墳について、発掘調査によって古墳の墳丘長をまず確定しようと考え、今回、初となる発掘調査を実施しました。

調査成果②  墳丘規模の解明

これまで万籟山古墳の墳丘長は、地形の観察や測量調査によって54mとの推定が有力でしたが、今回の発掘調査によって64mであることが判明しました。

その根拠は、

①前方部トレンチで2段の葺石を検出し、1段目基底石から前方部前端が確定したこと、

②後円部トレンチ北端で傾斜平坦面を確認したことです。

さらに墳丘高は8.7mを測ることも明らかとなりました。同時期の猪名川流域の最有力古墳に相当する規模となります。

調査成果③ 万籟山古墳が築造された背景を探る手がかりが得られたこと

以上のように、発掘調査成果によって、万籟山古墳のサイズにかんする情報が得られたことにより、猪名川流域に築造された古墳の盛衰がいっそう鮮明なものとなりました。
万籟山古墳は、これまで少量の埴輪しかひろわれていませんでしたが、今回の発掘調査で多く出土した埴輪の特徴から古墳時代前期中頃(4世紀前半)に築造されたことが、確実視できるようになりました。

さらに、前方後円墳に竪穴式石室を有するという最も格式の高い古墳の形であることはすでにしられていましたが、発掘調査によって古墳の表面に丁寧に葺石を敷き詰め、埴輪を樹立していたことも明確となり、まさに古墳時代前期の典型的な古墳であると理解できるようになりました。標高215mを測る高い尾根上に築造されていることも教科書的な前期古墳のあり方といえます。

このように万籟山古墳に関する情報が発掘調査によって確定してきたことによって、古墳時代前期の長尾山丘陵には、葺石を有し、埴輪を樹立する前方後円墳が少なくとも2基(長尾山古墳、万籟山古墳)築造されていることになりました。両古墳にみられる特徴は、日本列島の中で最も巨大かつ入念に築造された大王墳をはじめとする大規模古墳と類似することから、初期ヤマト政権と長尾山付近の勢力との強い連携を推測することができます。

では、どうして長尾山丘陵にこのような典型的な前方後円墳が築造されたのでしょうか?被葬者はどのような勢力基盤をもっていたのでしょうか?

このことを考える手がかりの1つは、万籟山古墳墳頂から見渡すことのできる景色にありそうです。

万籟山古墳の上に立てば、宝塚市内はもとより、南に大阪湾、西に甲山から六甲山系、東に生駒山を眺めることができます。そして、現在の宝塚市から名塩をこえて三田市にいたるルート、猪名川をさかのぼって能勢、亀岡に至るルートと日本海側へ向かうルート上の結節点にあることも理解できます。

中国大陸や朝鮮半島から輸入しなければならなかった鉄の素材や道具をはじめとして、様々な物流が必要不可欠になっていた古墳時代、交易ルートの掌握は、地域の有力者にとっても、中央の政権にとっても権力を維持する上で欠かせないものであったことといえます。

こうしたことを念頭に置くと、自らがおさめた地域を見下ろし、さらには流通網を眼下におさめることができる場所を選び、万籟山古墳が築造されたと理解できるのではないでしょうか?

もちろん、こういった視点は、集落遺跡から出土する土器からみた交流のあり方や様々な器物からみえる交易ルート復元をふまえて評価する必要があります。しかしながら、そういった考古学的な証拠も出そろってきている研究状況にありますので、万籟山古墳の発掘調査を継続していくことでさらなる実態解明につなげていきたいと大阪大学考古学研究室では考えています。(N)

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