宝塚市とその周辺の古墳

 

宝塚市の古墳は大きく分けて、武庫川と猪名川のあいだにはさまれた長尾山丘陵と、武庫川の南西部の段丘上に築かれた古墳、北部西谷地区の大原野周辺の古墳にわかれます。

宝塚市内における古墳の分布

単独墳(周囲にほかの古墳が築かれないもの)としては、長尾山丘陵に見られる万籟山(ばんらいさん)古墳、長尾山古墳、中山寺白鳥塚(はくちょうづか)古墳、中山荘園(なかやましょうえん)古墳などがあります。これらはこの地域をおさめた首長の中でもとりわけて実力者であると考えられています。

長尾山古墳の位置

一方、宝塚市の古墳の90パーセント以上を占めるのは、小規模な古墳が数多く密集するように築かれた群集墳(ぐんしゅうふん)です。この群集墳は古墳時代後期の後半、6世紀後半に多く築造されます。

宝塚市内で群集墳が最も多く築造された場所は、長尾山丘陵です。現在の地名でいうと、雲雀丘から山本にかけて分布が密になっており、300近い古墳があったと考えられています。しかし昭和初年からの宅地開発などによって、数多くの古墳が破壊されてしまっています。

○ 猪名川流域の首長墳

地域の歴史を考える上では、その地理を理解することが大切です。山は、首長たちの勢力範囲を分割する一方、川は地域社会をつなぎ、物を運んでいきました。さらに、むかしの交通路を推定して、さらに出土品の観察から他地域からもたらされたものやその影響を復元できれば、ほかの地域との交流関係も明らかになってきます。

宝塚市と隣接する兵庫県川西市、大阪府池田市、豊中市は、北摂や丹波の山地から大阪湾へと注いでいく、猪名川の流域のグループとしてとらえることができ、これは古墳時代の地域の歴史をとらえるときの一つの単位となります。そして、猪名川流域の有力首長が埋葬された単独墳(首長墳とよびましょう)の分布を調べると、いくつかの単位が見いだせます。

猪名川流域における首長墳と集落の分布

現在の伊丹市を中心とする猪名野(いなの)エリア、豊中台地上に築かれた豊中エリア、大阪大学豊中キャンパスのある待兼山(まちかねやま)エリア、池田市域を中心とする池田(いけだ)エリア、そして、長尾山丘陵を中心とする長尾山エリアです。こうした猪名川流域の各エリアは、先行する弥生時代や古墳時代の主要なムラの分布ともおおむね対応し、さらに古墳時代の次の飛鳥・奈良時代に築造された古代寺院の分布にも対応します。このことは、首長墳の築造エリアが、単に古墳が築造された位置を示すのではなく、それぞれにまとまりある地域の社会があり、そこにはその社会を代表する首長の存在があったと考えられるわけです。

さらに、各エリアに築造された古墳のつくられた時期についてみていきましょう。

下の図は、これらの古墳の地域ごとに時代順に並べた変遷図です。一般に前方後円墳などの首長墓は代替りごとに同じ場所に営まれます。これを首長墓系譜、首長墳系譜(しゅちょうふんけいふ)と呼んでいます。同じ場所で有力な古墳が続く限り、そこを本拠地とする首長一族は政治的に安泰であったと考えられます。

各エリアに築造された古墳の築造時期

 

上の変遷図を見て気づくことはありませんか? 古墳時代前期には豊中台地、待兼山丘陵、池田、長尾山丘陵で古墳が造られています。ところが中期になると豊中台地や猪名野エリアに古墳が集中します。しかし後期になると、豊中台地に古墳がなくなり、池田や長尾山丘陵に大きな前方後円墳が造られるようになります。これは偶然の出来事なのでしょうか?この現象を、これまでの古墳時代にかんする研究をふまえた上で考えてみましょう。

〈参考文献〉
都出比呂志1988「古墳時代首長系譜の継続と断絶」『待兼山論叢』第22号史学篇 大阪大学文学部
池田市立歴史民俗資料館2010『古墳時代の猪名川流域―猪名川流域に投影された畿内政権の動静―』

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